結婚そして版画家への道へ

1919年(大正8年) - 1927年(昭和2年)


1919年(大正8年)、永瀬は両親のたっての願いもあって結婚します。相手の名は「栗山いと」、茨城県龍ケ崎市の出身で親類からの紹介でした。形としてはお見合いでしたが、一目で双方が気に入り、とんとん拍子で結婚が決まったようです。

結婚 結婚


新居は東京の谷中で、近くには彫刻家の朝倉文夫の邸宅がありました。結婚生活は始まったものの、永瀬には決まった収入がありません。永瀬は自活する道を考えなければなりませんでした。絵描きとしての自立を求め、京都に移り住んだこともありましたが、あるコレクターの知遇を得て東京に戻ります。住んだのは上野、桜木町(現在の根岸近辺)。

朝倉文夫宅 朝倉文夫宅


ここからが永瀬の本格的な創作活動の出発点となりました。この年永瀬は、版画家としての先輩である山本鼎が設立した農民美術研究所の職員となり、長野で版画指導に当たります。永瀬は確実に版画家としての道を歩み始めました。


「版画を作る人へ」を刊行

版画を作る人へ 版画を作る人へ 版画を作る人へ(中身) 版画を作る人へ(中身)

1922年(大正11年)、永瀬は農民美術研究所で版画の技術指導を続ける中、「版画を作る人へ」という本を執筆します。この版画技法の本は、日本美術学院から発行され、6回も版を重ねました。さらに改版されて、中央美術社からも何度か出版されました。美術書としては異例ともいえるベストセラーで、この著書の影響を受けた版画家には棟方志功、谷中安規(たになかやすのり)などがいます。この頃の永瀬は執筆活動が盛んで、「中央美術」や「みづゑ」といった美術雑誌に評論を執筆していました。さらに、雑誌「詩と版画」の創刊にも携わり、創作版画の啓発にかなりの時間を費やしています。


活発なる創作活動の日々

花 花

1923年(大正12年)以降29年まで、永瀬は日本創作版画協会展や春陽会展を中心に、作品を次々と発表していきました。1928年発表の「花」という多色刷りの木版画がありますが、同時代の画家達はその作品に対し、フランスの幻想画家ルドンの影響を指摘しています。これは後の永瀬の作風を知る者にとってたいへん暗示的な言葉です。以降年を経るごとに永瀬作品の中に、幻想的な表現があちこちに現れてくることになります。


髪 髪

この時期の頂点を成すものとして挙げられる作品は、1927年(昭和2年)の帝国美術院展で入選となった「髪」という題名の木版画でしょう。紺色と金色で構成されたこの作品は、漆の液と金粉によって工芸品のように作られ、日本的な雰囲気を見事に表現しました。


童女像 童女像

もう一つ忘れてはならないのは、「童女像」という名の油絵です。この絵は「髪」と同じ1927年(昭和2年)に結婚前の妻をモデルに描いたもので、北原白秋の所蔵となっていました。白秋はことのほかこの作品を愛していたらしく、晩年入院先の病室にまで持ち込んだという逸話が残っています。


白秋はこの絵に対して次のような句を読んでいます。

「童女像 朱(しゅ)の輝(て)り霧(き)らひ 今朝見れば 手に持つ葡萄 その房見えず」
「短日は盲(し) ふる眼先(まさき)に 朱の寂びし 童女像ありて 暮れてゆきにけり」


この年、結核療養中であった妻の「いと」が亡くなります。享年30歳。永瀬に死亡の知らせが届いたのは、葬儀が済んで一週間も後のことでした。死亡の原因が結核ということもあって、実家の家族だけでひっそりと葬儀を済ませていたのです。当時の習慣としては、珍しいことではありませんでした。

いと いと



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