フランスへの旅立ち

1929年(昭和4年) - 1934年(昭和9年)


1929年(昭和4年)この年38歳の永瀬は、春陽会展で初めて賞を獲得しました。これを人生のひと区切りと考え、永瀬は版画研究のためのフランス遊学を計画します。フランス行きは、永瀬にとって長年の宿願でした。

永瀬肖像 永瀬肖像


フランス遊学 フランス遊学

フランス遊学 フランス遊学


6月初め、横浜港を出航。シンガポールを経て、マルセイユに着いたのが40日後のことでした。永瀬はパリ郊外の田舎町クラマールに居を構えると、早速版画制作に取りかかります。日本で募った会員のための作品で、生活費を稼ぐためのものでした。その一つが6点連作の「東洋の旅シリーズ」です。


「東洋の旅シリーズ」は、フランスへ向かう船旅の行程を作品化したもので上海、香港、マレーシア、インド、スエズ、エジプトの6カ所を題材に選んでいます。注目されるのは、この6点がまるで同じ作家によるものとは思えないほど異なった表現形式であることでしょう。


上海所見 上海所見

一作目の「上海所見」では人間、岸壁、船、鳥、雲それぞれの形態が平面的に表現されています。これは線、色彩、形という基本的な造形要素をつきつめ、遠近法とは異なった空間構成の在り方を提示しようとした作品です。しかし、そうした実験的な試みでありながら、幾何学的な形がどこかユーモラスでのんびりとした風情を醸し出しています。


香港夜景 香港夜景

二作目の「香港夜景」は単色刷りですが、空気遠近法をも思わせる段階的な濃淡は永瀬の面目躍如たるものがあります。手前に位置する人物と船上を思わせる曲線的なフレーム、海に浮かぶ船影、点在する夜景、遠くに浮かぶ山並み、深い奥行きを感じさせるこれら黒のバリエーションは、この作品をたいへん叙情的なものに仕上げています。


マレー美人 マレー美人

三作目は、南国の女性の逞しさを率直に描いた「マレー美人」です。中央に位置する横向きの女性に存在感を与えるため、背景に南洋風な植物を水色で繊細に表現しています。永瀬作品における装飾的表現は、植物を素材としてたびたび現れますが、その扱いは極めて慎重で、表現意図に沿って的確に行われています。


シバの踊り シバの踊り

「シバの踊り(インド回想)」と題された四作目の作品は、黒の輪郭に墨のぼかしを入れて、動きある表現となっています。驚くべきは、黒で描かれた輪郭線でしょう。永瀬は、肉筆とも思われるような自由闊達な線を木版画において獲得しています。踊っているポーズもたいへん微妙で、体重を支えている右足からはいきいきとした躍動感が伝わってくるようです。


スエズの日没 スエズの日没

五作目の「スエズの日没」は、淡いピンク色を画面全体に彩色して、スエズの夕刻をたいへん印象深いものにしています。よく見ると右手には人間とラクダのシルエットがあります。また、左奥にはイスラム教のモスクも見られます。船上にいるのは永瀬自身でしょうか。スエズ運河への驚きとアラブ世界の異国情緒が夕焼けの哀愁に溶け込んで、しんみりとした情景を作り出しています。


ピラミッド ピラミッド

東洋の旅の最後を飾るのは、エジプトを描いた「ピラミッド」です。永瀬はピラミッドを遠くに望むエジプトの風景を、幻想的に表現しました。砂漠の砂のうねりを、グラデーションで描いたのは見事です。長く連なるラクダの群れ、モスク、ピラミッド、「香港夜景」でも使われた空気遠近法的な技術が、より一層高度な形で現れています。


永瀬の木版画の特徴は、木版特有のコントラストの強さに依存していないことでしょう。木版は木を彫るという非常に単純な方法で作られるため、明暗がくっきりと分かれて作品の質が素朴になりがちです。永瀬はそうした素朴の美に満足しませんでした。木版による微妙な濃淡は永瀬作品の特徴で、こうした表現が木版画の芸術的価値を大きく押し上げることになります。



トップページへ